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ひとこと

サイケデリックな夢を見る夢を見た夜は、犬よりも猫を撫でまわすような、そんな空白の一日を、僕らといえば埼京線で痴漢をされたカップルのようにただひたすら追い求めるばかりだったのです。






お知らせ

  • ブツクサ言い始める。<2011.06.19>
  • 取り敢えず再公開。<2009.12.26>
  • さらに面倒くさくなったのでブログシステム的なものを導入しました。<2009.12.24>
  • 面倒くさい部分はDreamweaverさんにやって貰うことにしました。たまにはツールに頼ることも大切ですよね。そして思っていたよりもカシコイ<2009.1.14>

雑記


連休中は少し箱根のほうに足を延ばしてきました。

実はカメラで何かを撮影するのがすごく好きなのですが、知っている人がいる前でカメラを出して何かを取るというのもなんだか気恥ずかしいし、街中でカメラで何かを撮影してまわるというのも、なんだかオシャレ文系男子のようで気恥ずかしいのです。そんな気恥ずかしがり屋の男でも、旅行のときくらいは誰にも気兼ねせずにカメラをいじることができるのでした。幸せな気分でした。

少し前からSDカード、位置情報のタグを書き込んでくれる無線対応のものにしたのですが、撮影した写真が帰宅してから地図上にプロットされるというのはなかなかに素敵な気持ちになるものです。また行こう。
amazonが今春、日本で電子書籍端末を発売するために、出版社と調整中というニュースを昨年どこかのニュースサイトで目にし、よし、これからは電子書籍だとばかりに家にある積んであった書籍を電子化してはや数か月が経過しました。いまだにamazonからは何のアナウンスもありません。その間に新しい紙の書籍を購入するというのもなんだか癪に障るし、かといってスキャンした本をipodで読むのはなんだか読みづらいし文字は小さいし…というわけで、このところは通勤時の電車でも本を読むことをしない日々が続いているわけですが、いい加減活字に飢えてきたというか、このままではクルクルパーになってしまうのではないかという危機感を感じるようになってきました。このような精神状態で過ごすというのはあまり良くないような気がしています。どういう因果関係があるのかはわからないものの、WEBの更新頻度も減っちゃったし。そういう風に考えたならば、本を読む、ということはそこに書かれた知識を得るということ以外にも、読み手にたくさんの良い影響を与え、ハツラツとした日々を過ごすための手掛かりになっているのかもしれないといまさらになって思う次第です。とにかく、活字に飢えたから明日から紙の本を読むことにします。朝の通勤電車で眠るのはもうオシマイ。電子書籍はもう少し市場が円熟してから改めて考えることにします。駅に着いたら起こしてください。
付き合いにして30年になるであろう、唯一にて最古の友人が地元に一人います。どちらかというとあまりコンピュータやネットワークに詳しくなくて、今まであまりそういった話というのはお互いしてこなかったわけなのですが、最近、携帯電話をスマートフォンに変えたらしく、その勢いで最大手ソーシャルネットワークサイトにアカウント登録をしたようです。先日、招待のメールが送られてきて発覚しました。

僕個人としてはこの手のネットワークコミュニティというのは割と疲弊してしまった感があって、自分からは距離を置いていました。なんだか15年位前の日記サイトのつながりを彷彿とさせるというか、数年前でいうとミクシィ的な感じというか、ウェブのコミュニティというのは結局はそういった流れの繰り返しなのではないか、というような気持ちが強く、イマイチ乗り気ではなかったのです。

しかしながら、全くいままでネットワーク上での動きをみることのなかった友人が、ウェブの大海原で活き活きと活動していく様子を見ていると、なんだ懐かく、感動すら覚えるのです。きっと彼は今、ウェブで人々と交流することが楽しくてしょうがないのです。
その様子を眺めているだけで、こちらもワクワクしてしまいました。

たったそれだけのことですが、久々に心を動かされてしまったので、ここに記しておきたい気持ちになったのでした。つづく。

うそ、つづかない。僕もワクワクしながら生きる。

いろいろとブログを更新するためのカラクリというか、そういうものに凝り始めて更新が滞っていました。出先のスマートフォン的なデバイスから更新ができるようにと、ワードプレスに関する情報を集めてみたり、仮想サーバーにインストールしてみたり。

最近はゲームをやるでもないくせに、ゲームをやるための環境にやたらこだわってしまうなど、本来、現実逃避のために存在していたであろう趣味的分野に取り組むことにすら真正面から取り組むことができず、逃避してしまうというわけのわからないところにすぐ行ってしまうというところがあります。

これでは結局のところ自分の中での達成感というのが「いつでもどこでもブログを更新できるようになった」とか「最高の環境でゲームをすることができるようになった」などというところでしか得られることができなくなってしまっているということで、なんだろうそれはマァ、そういう方向を自分が選んだというふうに考えるならばしょうがないのかナァと思うこともできるのですが、結局のところ、自己の感情にはなにも訴えかけてくるものもないし、ゲームをクリアした!なんていう達成感も、そのストーリーを楽しむということもないし、世の中全体的にみてもあんまり生産的ではないナァというような点において、少し治していきたいと思っているところでもあるのです。

まー、今は仕事も楽しみながらバリバリやれているから、無理する必要はそんなにないんですけどネ。
外付けハードディスクの電源を入れたら「フォーマットされていません」などという不可解なメッセージが表示されてしまったため、中に保存されていたいやらしいデータではなくて、今までいろんなところに行っては撮りためた写真が消えてしまったのではないかとヒヤリとしたのが数日前。一応、読み書きはできるようでとりあえずは助かった気持でいますが、あまりに顔面蒼白な出来事だったために、今は数枚のブルーレイディスクに内容をチマチマとバックアップするのが日課となっております。学生時代はもう少しクリエイティブなやる気というものに満ち溢れていたような気がしないでもないのですが、最近のプライベートな時間といえば、そういう単純な作業としかいいようのない作業に費やして落ち着いていることのほうが多いような気がします。なんでだろ、日中バリバリとクリエイティブに働きすぎなのでしょうか。そうでもないような気もするんだけど。

気が付けば、21世紀になってからは写真というものを撮るときはすべてデジタルなカメラを用いて撮っているわけです。そうして撮りためたデータは代々PCのハードディスクに保存され、PCを買い替えるたびに内容が移され、雪だるましきにその容量と枚数を増やしてきているわけです。しかし、今回の件ではっきりと気が付いたのは、HDDというのは所詮はいつか故障のときをむかえる消耗品でしかないということなのです。
まぁ、火事になってしまえば元も子もないというのはそうなのですが、昭和の時代の写真というのは、きちんと時系列にアルバムに収められ、実体のあるマテリアル的なものとしてその手に収められてきていたわけなのですが、HDDに収められたデジタルデータというのはHDDが故障したら過去すべてパー、さようならメモリーズといった趣のものなのです。
というのをこのところすっかり忘れてしまっていて、カツカツとHDDにため込んでいたわけなのです。容量当たりの単価が安い、ということもあり。

現像、とまではいかないまでも、HDDよりも物理的な障害に強い、物として残っている感じのイメージがする外部記録メディアというものを、改めて評価した、そんな出来事でございました。
あー怖い怖い。機械って怖い。

怖いから、俺寝る。

春にAmazonのKindleが遂に正式に日本上陸ということで、このところ急激に電子書籍の時代が来るのではないかといわれております。かくいう自分も今年に入ってからというもの、なんとなく「乗るしかない…このビッグウェーブに」というような脅迫観念にとらわれ、チマチマと自宅の蔵書を電子化しているところだったりします。どんなに優れたハードがあったところで、コンテンツがないというのは致命的ですからね。ひとまず、読むか読まないかは別としても、本というのは自分の知的部分のログ的な意識もあって、なかなか処分に気持ちが向きにくいわけです。そういう意味では、電子書籍端末の黒船到来を理由に、大量のスペースを占める書籍を電子化の名の下に処分(物理的な意味での)していくというのは、行動に理由を必要としがちで頭でっかちな自分にとっては、都合のよいことであるわけです。とんだ屁理屈というか、屁モチベーショニングというか。

こんなことを書いている背景には、なんとなく歳を取ったせいか社会の荒波にもまれ、自制心が強くなってしまったのかな、というところもあるわけです。「自分が本当にしたいこと」というものの見つけ方もよくわからないし、それを他人に表現する方法というのも忘れてしまったのかな、というような気がするのです。このままでいくと、無意識的なメタ我慢を続けた挙句、死に際に「もっと自分のしたいことをしておくべきだった…」なんていう面倒くさい人生になりかねません。
「したい」が見いだせないのならば「やるしかない」を作っていくしかないのです。悩んでもしょうがない、立ち止まったら勿体ない。だから、やるっきゃねぇ!何を?

今は、本の自炊かな。

iTunesを新しくインストールしなおしたらヤプーズのカバーアートが一部、デジタルスーパースター列伝のサムネイルになってしまうという不可思議な現象が発生。アップル社の奇怪なアルゴリズムが両者に共通して感じることができる(かもしれない)退廃的かつネオダダ的な何かを収集し、結びつけてしまったのだとすると、これは驚異的な技術力ではありますが、同時に大きなお世話だと思います。
流石にそこまでの大きなお世話はアップルもしてはいないだろうとは思うのですが、技術的にはさほど難しいことではないような気もしますし、現在のiPhoneの普及っぷりからして、逆に何等かのユーザーリサーチを行っていないと考える方がおかしいのではないかとも思います。特定のセグメントのユーザーがスマートフォンでなにを見て、どんな音楽を聴いて、何を買ったのか。総ての情報が製品のフィードバックという名の下に、開発側に渡る。街角アンケートのバイトも、アンケートの謝礼も必要なく、またアンケートとは違い、ユーザー側も(抽選に当たりたいからなどの理由で)メーカーに対し甘い評価をしてしまったりもしないわけですから、その情報の価値というのは今までのアンケートなどの手法で入手できるようなものとは比べものにならないでしょう。
なんていう当たり前のことを少しだけ考えてしまった、謎のカバーアート入れ替え事件でありました。なんでもいいけど、結構夢中になってカスタマイズしただけに残念でなりません。ネェ、戻してよーう。

動きもしない原付によくわからない税金を律儀におさめ続けている状態というのがここ数年続いていて、なんとかして廃棄する方向で進めていかなければいけないと思い、インフォシーク的なもので原付の廃棄方法を調べてみたのですが、これがマァ、恐ろしいくらい煩雑で、別に駐輪スペースさえ確保できていればしばらくは放置状態でもイイのではないだろうか、だってメンドクセエし、などと思ってしまう始末です。もう少し日本政府は簡単に原付を廃棄できるような仕組みというものを作り、原付から自転車への買い替えや、原付からバイクの買い替えなど、消費者がたくさんお金を使いやすい方向にした方が国益となるのではないだろうか、などと考えてみたものの、きっと自分が動きもしない原付を無事廃棄できさえすれば別にそんな制度が日本になくてもいいもんね、税金の無駄遣いだもんネ、なんていう気持ちになってしまうでしょう。国民というのはなかなかに我儘なものであります。

そうった意味も踏まえまして、最近胃腸の調子がすこぶる悪く、朝の目覚めも悪ければ、お酒を呑んだ後の調子もあまりよくないような状態が続いております。このような状態を打破するためにはどうしたらよいのかと考え、インフォシーク的なものでいろいろと調べたところ「1.乳製品を寝る前などに飲むと胃の粘膜がやさしい感じになって良いらしい2.野菜なんかもよいらしい」という二つの良いらしいポイントが目に留まり、またこの2点ぐらいであれば、ソースがトンデモテレビ健康法的なものであったとしても、自身の健康に大きな損害を与えるようなものでもなく、とりわけ経済的な被害というものもこうむるようなものでもないでしょう、という結論に達したため、今週末より、乳酸菌ヨーグルト配合野菜ジュースというものをこまめに摂取するようにしています。

初めてまだ数日ではありますが、経過段階としては割とオナラがだらしなく出るようになってきたナァという感じではあります。ただ、劇的な変化というものはまあまり感じませんプぅ。

これがうまいこといった暁には、「乳酸菌野菜ジュースで胃腸健康法!」的なブログへと鞍替えし、「あの人、ついに良くわからない健康法的なトコロに行ってしまったか…」と人々から残念がられる、というもの、フフフ悪くないナァなんていうふうに今は思っているのですが、どうでしょうおならプぅ。どうもこうもないか。
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